気まぐれ日記 2011年4月

2011年3月はここ

4月1日(金)「会社員・・・の風さん」
 世の中は入学式、入社式の日だ。人生の門出の記念すべき日。
 やり直す場合はまた楽しいけれど、どちらにも縁がないと悲しい日になることもある。それが私の場合だ。
 32年前の入社式の日は、人生の門出の日とは思っていなかった。自分で決めた人生は、作家としての人生。だから、その日は、まだスタートを切っていなかった。スタートを切らないまま、でも止むを得ず全力疾走してきて、32年経過している。
 そろそろ疲れ気味。疲労していると精神も健全さを失う。
 話は変わって。
 自動車部品業界に属する勤務先の工場2箇所を、今日訪問する機会があった。
 大震災の影響で、自動車メーカーからの注文は途絶えている。下請けからの部品調達の困難さはそれほど深刻ではなさそう。そういった結果として、うちの工場は、CKD(ノックダウン生産のための)部品や輸出部品の製造だけで、50〜60%の操業度だった。リーマンショックのどん底では40%だったから、それよりマシらしい。

4月2日(土)「いけいけかっぱ?・・・の風さん」
 私にとっては執筆稼ぎ時の週末である。
 山本悦子さんの最新作『がっこうかっぱのイケノオイ』が課題図書になった。オリジナリティとひねりを感じる快作だと思っていたが、やはり、納得の評価である。
 それをワイフへ告げたら、いきなり読み出した。
 読み終わって、ため息をついてひと言。
 「久しぶりに本を読んで感動した」
 「何? この前に僕の本を読んだばかりじゃないか!」
 「……」
 その後、ワイフを追及したが、山本さんの最新作のタイトルすら満足に言えない。
 「いけいけかっぱのオイ」
 「違うだろ?」
 「でも、久しぶりに感動した」
 絶句。

4月3日(日)「大先輩から激励・・・の風さん」
 午後、会社の大先輩(元副会長)から電話があった。
 たった今『星空に魅せられた男 間重富』を読み終わったという。
 「君はいったい何百冊の本を読むと、こういう作品が書けるのか?」
 「何百冊なんて、とんでもありません。でも、現物があれば見に行きますし、現地が分かっていれば行ってみます」
 「そうか。いずれにしても大変だな。もう会社生活も残り少ないんだろう? 会社の仕事はいいから、どんどん書きなさい」
 「ええ? いいんですか?」
 「それより、体だけは気をつけろよ」
 「はい。ありがとうございます」
 夕食前に連載原稿が仕上がった。1ヶ月と3日遅れである。
 どうして、こんなに仕事がのろいのか。
 よく考えてみたら、書くのが遅いのではなく、納得いくまで調べているから遅いのだ。
 作品によって、かける時間を変えていかないと、とても量産作家にはなれそうもない。
 そして、健康を維持する工夫も大事だ。

4月4日(月)「早起きは三文の徳・・・の風さん」
 駐車場を確保するため、早めにT製作所へ出社した。
 しばらくミッシェルの中で、自分で淹れたコーヒーを飲みながら時間をつぶしていると、昔の上司からケータイに電話があった。
 贈呈した拙著が届いたという連絡だった。元上司は東京へ行っていて、郵便物の受け取りが遅れたとのこと。最近は東京でも悪名を轟かせておられるようだ。まずは、めでたいめでたい。
 朝の会議で新刊を宣伝したら、買ってくれる人が出てきた。これは驚きであった。調子に乗って少し売り込みをかけたら、また売れた。早起きは三文の徳だったのかも。とにかく、ありがたかった。
 その後、A製作所へ行き、それから現職場へ行った。
 移動してばかりの効率の悪い1日だった。
 帰りに今シーズン最後の灯油を購入した。

4月5日(火)「スタートは良かったが・・・の風さん」
 今朝も早起きして出社した。
 会社の周辺の桜が咲いていることに今頃気が付いた。
 定時前のラジオ体操もひさしぶりにやった。
 幸先良い1日のスタートが切れた、と喜んだのだが、そう簡単に問屋は卸してくれなかった。
 それから会議が3つも続いて、あっという間に夕方になってしまったのである。
 これではいけないと思い、帰りに本社に寄って、委託している社内書店長に新刊を5冊届けた。
 有料道路を使わずにミッシェルを飛ばして帰宅した。

4月6日(水)「写真がアップデートできたら本来の年寄りに・・・の風さん」
 今朝も早起きして出社した。途中で手紙も投函した。
 このところ花粉症が重症で、朝から強烈な薬を飲んでいるため、勤務中は頭がボーっとしている。いやもしかすると、早くも老耄の域に達しているのかもしれない。しかし、この薬を飲んでいると花粉症はおさまっている。きっと認知症の薬も、服用するとこういった副作用が出るのだ。敏感な母が、「どうも最近わたし変だ」ともらしていたが、分かる気がする。
 夕方ICチップ入りのネームプレートを10年ぶりぐらいに更新した。
 顔写真がアップデートできたのがうれしい。若造の写真のままでは、どうにも尻のあたりがこそばゆかったのだ。
 職場名はシールで貼るのだが、もらったシールの台紙がうまく剥がれなかったので、癇癪を起こしていたら、事務の女性が来て「変ねえ。ちょっと貸してみて」と言いながら、あっという間に台紙を剥がしてくれた。
 「すごいなあ。でも、どうして簡単に剥がせたの?」
 「若いから」
 「@*&%#」
 今日も、帰りに本社に寄って、猛烈な速度で歩き回った。
 有料道路を使わずにミッシェルを飛ばして帰宅したのは、昨日と同じ。

4月7日(木)「本社で謎の行動・・・の風さん」
 すごい。今朝もちゃんと早起きして出社し、ラジオ体操もやった。
 これはもう意地かもしれない。
 意地といえば、また軽い五十肩が出ている。利き腕の右の肩が痛いのだ。もう何度も強制的に動かして五十肩をやり過ごしている。だから、体を動かさなければならない。
 本社の診療所へ行って、高血圧の経過観察を受けてきた。
 正直言って、不摂生な生活を送っているので、どんな値が出るか怖かった。なので、たった1錠だけ残っていた高血圧の薬を飲んで家を出てきた。
 そのせいか、まともな数値をたたき出した(^_^;)。
 最近、本社にはあまり行かないので、何となく他人の会社のような気がしていたが、今日は不思議なことに、知り合いとよく出会った。それも懐かしい知人たちばかり。
 私にとっては幸運、彼らにとっては不幸(?)。今日は、新刊『星空に魅せられた男 間重富』を抱えていたので、売り込んでみたら、全員快く(?)買ってくれた。もっとも、代金は私が赤字になる特別価格である(当然か)。
 帰りに床屋に寄って、今日も有料道路を使わずに帰宅した。

4月8日(金)「早起き貫徹・・・の風さん」
 とうとう金曜まで早起きを励行した。
 今週はずっと花粉症で苦しんでいたが、今日は朝から雨模様だったので、薬を飲むのもやめてみた。
 そうしたら、眠気と脱力感と薬のせいでもなさそうな無気力感は生じなかった。
 しかし、会社の周囲を眺めると、濡れた地面に桜の花びらがたくさんへばりついている。
 もう桜の季節は終わりかけているのだ。
 おお、この潔さ。桜を武士にたとえるのがよく分かる。
 今日は、会社でじっくりと仕事に取り組んだが、たまっている量がハンパじゃないので、精神的なストレス解消とまではいかない。
 今日は有料道路を使い、途中で降りて、ミッシェルに給油してから帰宅した。
 相変わらず東北地方は余震が続いている。
 自分の一生でこんな大震災を経験するとは思わなかった。
 芸能人やスポーツ選手の行動を見ると、誰が真剣に日本のことを思っていたかよく分かる。
 外国人が祖国でもない日本から逃げ出すのは、ある程度止むを得ないと思っているが、知り合いの中国人留学生二人にメールしてみたら、二人とも日本にいたので、うれしかった。
 
4月9日(土)「長男の帰省・・・の風さん」
 書き入れ時の週末である。大震災で乱れたリズムがどこまで取り戻せるか。体力がないのが一番の課題だ。
 今日は、15日の講演の下準備をした。ラフながらも使えそうなスライドを集めたのである。
 なるべく新規なスライドは少ない方が製作作業が楽だし、内容をしっかりさせることに重点を置ける。
 しかし、歴史小説家が生産技術を語るというとんでもないテーマなので、なかなか一筋縄ではいかない。
 午後、京都から長男が帰ってきた。
 ほぼ4年間続けた当地のバイト先の飲み会に誘われたのだという。意外と人間味のある職場だったようだ。だが、長男にはまだそれが分からないのだろう。
 2度目の大学では、一般教養の単位が免除されるとのことで、合計30単位にものぼるという。その分テキスト代が節約できるだけでなく、勉強の時間に余裕ができるわけだから、2度目ではあるが、メリットもあるということだ。
 バイトで補えない学費と生活費は、やはり奨学金を申請するそうで、その金額が長男の現時点の経済感覚である。
 はたしてこれからどうなることやら。
 来月あたり、今度はこっちから様子を見に行きたい。
 
4月10日(日)「またワイフが……の風さん」
 時代小説文庫に挑戦している。エンターティンメントである。
 少年時代に戻って、空想力を生かして小説を書くのである。
 基本的に楠木誠一郎さんをお手本にしようと思っている。素直な作風で、しかも量産しているからだ。
 ちょうど読み終わったので、次は新作『手助け桜』を読もうと思ったら、……ない!
 犯人はワイフだった。
 宵っ張りのワイフはどんどん読み進んでいる。
 「久しぶりに面白い時代小説だわ」
 「おいおい。僕の児童文学もいちおう時代小説の部類なんだけど」
 「これ、面白いわ」
 僕は面白くなかったので、投票に行くのもやめた。 

4月11日(月)「大阪キャンペーン出張・・・の風さん」
 出版社とキャンペーンのため大阪へ出かけた。
 有休をとっての作家活動なので、時間を無駄にすることはできない。
 キャンペーンとは関係ない資料をどっさりカバンに詰め込んだ。
 名古屋までの電車の中で早速資料を読んだ。
 新大阪までの新幹線の中でも資料を読んだ。
 新大阪から地下鉄に乗ったが、切符は買わない。 ICOCA(いこか)を
 持っているからだ。活動地域のIC乗車カードは必須アイテムだ。
 大阪歴史博物館で編集者と合流した。
 特別の通用口を入って、脇田館長室へ。
 そこで、さらに間一族のご子孫である羽間平安氏が合流された。
 八十代半ばとは思えない若々しい方で、それもそのはず関学ではアメフトの選手として鳴らし、現在は殿堂人りも果たした協会長である。
 こちらから尋ねる必要もなく、間重富の遺産の継承から大阪歴博への寄贈、そして現在の大阪にまで関わった歴史を滔滔と語られた。
 今回の執筆を通じて、大阪の歴史と文化に対する興味が大きくふくれあがっている私としては、貴重な話ばかりだった。
 歓談が終わって、大胆にも羽間平安氏に握手を求めると、すごい握力で応じてくれ、氏の強烈な印象は私の肉体にもしっかり記憶として刻まれた。
 午後、編集者と間重富の墓参に行った。天王寺区の統国寺である。
 そこで、大阪市立科学館の学芸員も合流し、大阪での新刊のキャンペーンについて相談を始めた。
 さらに近くの浄春寺にある麻田剛立の墓参もしながら、相談を続けた。
 再び歴博に戻り、今度は歴博の学芸課長も交えて、キャンペーンの可能性を議論した。
 私は、あまり知られていない間重富を、1人でも多くの大阪の人に知ってもらいたいので、できるだけ公式行事にしてほしいとお願いした。
 科学館がメインで、歴博が協力する形が、もっとも実現性がありそうだった。
 夕方、編集者と一緒に書店まわりもした。
 ジュンク堂難波店では、天文三部作がきちんと並べてあり、今回の星空に魅せられた男は、表紙を正面に向けて置いてあった。
 大阪を舞台にした大阪人の物語であることに、店長(実はお会いするのは今回が3回目だった)も関心を抱いてくれたので、トークセッションを提案した。難波店としては歓迎しているようだった。
 やっと仕事を終えた私は編集者と別れ、新大阪駅で恒例のブタ饅をお土産に買って、帰りの新幹線に飛び乗った。
 車中での資料読みを再開した。 

4月12日(火)「チェルノブイリに行く風さんの巻」
 昨日は震災から1ケ月の日だった。その翌日に、政府がまた愚かなことをやってくれた。今回の原発事故のレベルを最悪の7だと発表したのである。
 重大事故であると認識し、命を懸けて対策に取り組むことがもっとも大事なことなのに……。世界へ向けてチェルノブイリと同じだと
叫んでしまったのだ。7に認定して、解決が早まるのならいいだろう。そうでないどころか、むしろ国内の混乱を助長し、世界から支援の手が遠ざかることをしてしまったのだ。
 日本からの輸出は大幅に制限され(放射能汚染が疑われるから)、日本への観光も激減する。日本に滞在している外国人はますます帰国し、日本を訪れるVIPは当面ゼロになるだろう。2008年のリーマンショックの悪夢。あれが再び日本を襲う。世界で日本だけがリーマンショックを再現するのだ。GDPは激減し、税収入も減り、国民の負担が増加する。やはり悪夢だ。
 腹を立てた私は、いろいろな人にたとえ話で自論を主張した。
 どうも難病らしいと疑っている医者が患者に対して、「あなたは末期がんの疑いがあります」と言ってしまったのと似ている。「先生、治るんでしょうか」と患者はすがる目で医者に聞く。ところが、医者は「治療法は、今考えているところです」としか答えられない。ほとんどこれと同じだと思う。
 あの原発事故を安全に終息させるには、ざっと3 0年はかかるだろう。
 毎日毎日何マイクロシーベルトかなんて言っている場合ではない。
 30年間の長期計画とリスクマネジメントを含めた詳細計画を作って国民に早く見せない限り、国民はいつパニックになるか分からない。既に風評被害というパニックの類似現象を何度も引き起こしているではないか。
 それから望ましいのは、今回の事故が起きた原因を、歴史をひもといて国民に詳しく説明することだ。電力の需給バランスや発電コスト、原子力政策の当初の思惑と当てが外れたことを正直に反省した方がいい。
 なぜなら、これからかなり長期間原子力発電に頼ることはできないので、国民に節電の協力を求めることになるからだ。
 そして、福島県に非常に多くの方たちが今も毎日生活しておられることを忘れてはならない。
 来週、私は、また母の介護のために福島へ行く計画である。
 職場の同僚には、皮肉をこめてこう言っている。
 「来週、チェルノブイリに行ってくるからね」
 
4月13日(水)「夢見る高年者・・・の風さん」
 かつて(入社したころ)青年企業といわれた勤務先が、気がついてみれば老年とまではいかないにしても、明らかに高年企業になってしまった。人事戦略のミスは否定できない。これでは日本国と同じである。
 この傾向は今後ますます進むと考えられることから、高年者(当然わたしが含まれる)はしっかりスキルを身につけておくことと、実務を担当するだけでなく給与も下がるのを覚悟することが必要という説明があった。
 今さら言われるまでもないことだが、少し以前とやや変わってきたのは、担当する実務は、国内でなく海外勤務の比率が高まるということだった。
 はたして自分は海外で実務ができるだろうか。外国語とか文化の違いといったことはあまり気にならない。やはり仕事そのものがやれるかどうか、である。
 先輩に尋ねてみたら、国内業務の中で海外へ移転されるものが増えるという。
 現時点の海外での仕事を考えると、私の活躍できるフィールドは少ないと思っていたが、海外へ移転される国内業務の中には明らかに私の得意分野がある。そして、それは新興国ではなく、先進国から始まるはずだ。
 人生もうすぐ引退と考えれば何もやる気は起きないが、死ぬまで現役と思いたい私としては、新たな選択肢が出現した気がした。
 戸締り当番だったので、遅く帰宅して、ワイフに楽しそうに話したら、「何考えてんの?」と白い目で見られた。
 基本的は私はロマンチストで、ワイフはリアリストであることが再確認された。

4月14日(木)「芸能人、中国人、ボケ老人・・・の風さん」
 早起きして書斎で仕事をし、いったん旧職場に出社してから、愛工大へ行き、大野先生と今後の相談をし、夕方、現職場に現れたら、「おはよう」と皆から言われた。続けて「芸能人みたいだね」と。
 24時間あたふたと行動していることが理解されると同時に、それを芸能人と同等に評価されたわけで、ま、昨今、被災地へ慰問に行ったり、義援金や支援物資を自ら集める、人格者と思える芸能人が多いので、私はうれしかった。
 大震災といえば、いつまでも話題になっているのが原発事故と放射能だ。
 風評被害に苦虫を噛み潰している風さんとしては、もういい加減にしてほしいと思う。
 また、日本からどんどん帰国している外国人が多いのも気になる。
 そのような中、学問のためということもあろうが、ちゃんと日本に残っている、友人である中国人留学生ふたりと今日会った。中国語でいえば朋友。
 うれしかったので、朋友ふたりに新刊の『星空に魅せられた男 間重富』をプレゼントしたら、「これで日本語をもっと勉強します」と言ってくれるではないか。こちらこそ謝謝。
 帰宅し、夕食後、明日の講演の準備に着手した。だいぶ以前にこしらえたレジュメに沿って作り出した。
 作業が進むにつれて、時計もどんどん進んでいった。ボケ老人は仕事が遅い。

4月15日(金)「難しい講演を何とか終えた風さんの巻」
 作業が非効率になってきたのが分かったので、今朝の午前3時半にいったんベッドにもぐり込んだ。
 もうちょっともうちょっと思いながら、午前8時に起床した。
 今日は、名前は作家だが、生産技術について語らなければならない。とても難しい講演である。
 結局、自分の人生を語ることにした。私は作家であり生産技術者だが、自分では矛盾を全く感じていないからである。
 レジュメとは講演の要約という意味(フランス語)が一般に知られているが、もう一つ履歴書(英語)という意味もある。
 今日の私の講演内容は私の履歴書そのものだ、と洒落て講演を終えた。
 短時間にいつものように高速おしゃべりで、聴講者は頭脳をフル回転して聴いてくれたと思う。感謝感謝感謝。
 最後に新刊『星空に魅せられた男 間重富』の即売をやったが、期待したほど売れず、売れ残った。あらゆる面での私の実力不足である。
 夜は関係者で「お疲れ様会」をやった。寝不足と準備疲れと売れ残ったショックで、ひどく酔ってしまった(笑)。
 しかし、ここからまた勇気をふりしぼって立ち上がっていくわけだから、私は懲りない馬鹿者かもしれない。

4月16日(土)「邪魔ばかり入る・・・の風さん」
 常に仕事の優先順位をつけて、綱渡りながらも前進しているのだが、やることが多いのも事実で、とりあえず後回しになった仕事が山のようにある。
 書斎に入って机の上と下と周囲を見れば、それが一目瞭然だった。
 これらを片付けないことには、次の優先課題に取り組めない。
 ついでにカバンの中に放り込んである書類も、机上にぶちまけた。
 今日いっぱいかけても片付きそうもないが、やるっきゃない。
 やりながら、来週、再来週のアクションアイテムに振り分けもする。
 昼食を10分で終えて、さらに頑張る。
 夕食もまたたくうちに片付けて、さあ書斎に突撃、と思ったら、次女がケーキの大きな箱を抱えて帰ってきた。
 駅で友達にもらったのだという。
 友達はケーキ屋でバイトしているらしい。連日の持ち帰りでさすがに困っていたようだ。
 そのケーキも平らげて頑張っていたら、ワイフが書斎のドアを開けて、ひと言。
 「ポリフェノール、飲む?」
 悪魔の誘いだった。風さんは赤ワインに弱い。
 
4月17日(日)「SPに会ったことがある・・・の風さん」
 昨夜の赤ワインのせいではない。昨日は雑務を徹底して片付けたつもりだが、まだ膨大な量が残っていた。
 それが気になって(言い訳か)重要な執筆に取り掛かれない。
 それで、今日は、朝から本を送る準備に専念した。次々に手紙を書いては、おまけと一緒にレターパックに放り込むのである。
 夕方までに6通が出来上がった。横に美しい秘書でもいたら、仕事はもっと早く終わって執筆に取り掛かっていたか、あるいは別のことをしていたかも(やっぱり別のことをしていたろう。私は心の弱い男だ)。
 珍しくワイフが映画を観に行こうと言うので、すなおに行くことにした。
 いや。私が誘うと絶対に断ってくるので、逆の場合に承知しないと、永久に映画を観ることがなくなる(笑)。
 近場の映画館でSPを観た。テレビの大型版みたいなものだった。観客が少ないこと少ないこと。我々を含めても合計4人。これじゃ映画館がつぶれるぜ。
「どうして観客が少ないのかしら」
 こういう場合、人気がないからと言ったら張り倒される。
「義援金に寄付して、もう映画を観るお金がないんだよ」
 映画はまあまあ面白かった。若い人たちを眺めているだけで楽しい。ストーリーはくだらないが。
 ところで、SPといえば、一昨年元首相の海部俊樹さんに初めてお会いしたとき、付き添っていた警視庁の人がSPだな。
 恒例のUFOキャッチャーでディズニーキャラクターをはたき落として4個ゲットしてから帰宅。
 寝る前に最後の雑用をしこしことやった。

4月18日(月)「靴が壊れた・・・の風さん」
 月曜日は、1週間おきに、T製作所とA製作所に出社する。今週はT製作所である。T製作所の場合は、早起きして出発する。
 順調に早く着いたので、ミッシェルの中で静かな時間を過ごし、ころあいを見計らって、建屋に入った。
(???・・・)
 足元がスカを食らったように心もとない。
 会議室の席について、靴を眺めたら……、壊れていた! ベルトで締めるようなデザインになっているのだが、ベルトの留め金が破損して、ベルトがゆるゆるになっていたのだ。
 今どき、壊れるまで靴を履く人は珍しいだろう。貧乏性の風さんの面目躍如といったところか(笑)。
 職場に戻って、今日は慶応大学の先生をお迎えして世界の教育戦略の話をうかがった。
 知らない話のオンパレードで、お金と時間と体力があれば、先生の研究室に入って存分に研究したいと思った。
 この間に、靴は会社の安全靴(自分で購入したもの)に変わっている。
 定時後、本社へ行き、あちこち仕事をして回った。若いころからフットワークは良かった。
 ミッシェルに給油して帰宅した。
「ただいま〜」
「何それ?」
「安全靴だよ。自分の靴は壊れた」
「けっこうカッコいい靴ね。これで、明日も出張したら?」
「よせやい」
 夕食後、届いているメールに返信しているだけで、あっという間に深夜になってしまった。
 明日の準備は明日にしよう。
 
4月19日(火)「自慢の電波時計が・・・の風さん」
 執筆遅れの謝罪メールに対して、出版社から温情の返信があった。
 介護と震災のダブルパンチに見舞われたことに対する温情である。ありがたい。介護と震災以外にも負荷はどんどんのしかかってくるが、何とかこなして、鳴海風らしい本を完成させねば……。
 その負荷の一つに朝からぶつかっていった。
 これも自分の人生の中の重要なテーマの一つである。
 ケータイで東京へ電話した。運良く電話に出てくれたので、今年も気持ちを伝えた。そして、今年の新たなアピールポイントは、ビデオを観てもらうことだった。
「VHSビデオを送りますので、一度観ていただけませんか?」
「うん。いいよ。でも、うち、VHSはもう観れなくてDVDにしてくれる?」
「は、はい。分かりました」
 出発前にまた仕事が増えた。VHSをDVDに変換し、それを東京へ送る準備である。変換はうちではできない。どうする? どうする? どうする、鳴海風。
 あわてふためく私を、気の毒に思ってくれたのだろう、ワイフが協力し出した。旅行の準備を手伝い、珍しくダビングのアイデアまで出してくれたのである!
 結局、あらゆる準備をカバンに詰め込んで、出発することになった。おかげで、仙台出張のために用意したものを置き忘れた(笑)。
 DVDへの変換方法は、今日の移動中に、あちこちへ相談して決定することにした。
 名古屋に着いたら、激しい雨が降り出した。まるでスコールのようだった。前向きの私は、目の前にたれこめた暗雲などは、決して予想しない。
 のぞみ車中で居眠りはできなかった。DVD問題だけでなく、別件もあって、PCでメールのやりとりをしていたのである。相手は、長崎大学、四日市大学、職場、日本能率協会、一橋大学、日大工学部である。
 久しぶりの東北新幹線に乗車した。空はどんよりしていた。やがて雨になった。外は寒そうだ。新白河に着いたらみぞれに変わり、すぐ雪になった。桜が咲いているのに、雪が降っている!
 積もっているところも!
 さすがの私もこれには衝撃を受けた。地震や火山の噴火に続いて冷夏となり、とんでもない凶作からおびただしい餓死者を出した「天明の飢饉」を連想してしまった。あれも東北地方が最もひどかったはずだ。
 DVD問題は、チェルノブイリ(福島県)に着いてもまだ解決していなかった。
 郡山駅でレンタカーを借り(今回は日産のチューブ。前回がフィットで、その前がヴィッツだった)、今夜のご飯のおかずなどを買ってから、母の家へ向かった。
 母は元気だったが、猫のトイレはうん@であふれ返っていた(笑)。
 1日に何度も「今、何時? 今日は何日? 今日は何曜日?」と尋ねる認知症の母のために、カレンダー付の電波時計を持ってきた。もちろんデジタルで大きな表示である。
 自慢げにセットしてみせた……が、うまく表示されない。
 なんと、原発からの避難指定区域にあるため、福島送信所が停止しているのである!
 寝る前に余震があった。

4月20日(水)「DVDもできるかも・・・の風さん」
 母に電波時計の見方を教えようとした。が、覚えてくれない。認知症だからだ。そんなことも分からずに持ってきた私も認知症の予備軍だと言える。
 母の代わりに銀行へ行き、生活費をおろしてきた。
 カップ麺で昼食にした後、私はケアセンターへ行き、ケアマネジャーと1時間話をした。近い将来母が入ることになる施設に関する勉強である。世の中、知らないことが膨大にあるが、必要に迫られると勉強することになる。今日も初めて知ったことが多く、まだまだ勉強不足だと感じた。
 車で走っていると、あちこちで工事をしているのが目に入る。震災の傷跡の修理なのである。
 しかし、いつまでも余震が続いているので、工事はかなり真剣にやらないと、またすぐ壊れる。もちろん応急処置などでは駄目である。
 それにしても、須賀川や郡山は桜が満開である。震災が起きていなければ、多くの人たちが春爛漫を満喫していたはずだ。
 続けて、日大工学部へ行った。前回に続いて2度目だ。
 4月から客員研究員を拝命しているので、そろそろ私のミッションを決めなければならない。
 教授とさまざまな情報交換をした。
 この研究室の看板は、サステナブル研である。今回の大震災が研究室のミッションに大きな影響を及ぼしたとのこと。
 私には、キーワードとして「サステナブル」と「幸福」が与えられた。
 グローバル化が進展し、情報が氾濫し、時間の経過が恐ろしく速い現代と違って、江戸時代は外乱もなく(鎖国だから)、変動パラメータも少ない(徳川時代は平和で安定していた)。いわば単純化されたモデルの中で、さまざまな検証がされたとも言える。
 とりあえず、天明の飢饉をもう少し掘り下げてみましょう、と回答した。
 研究室の学生がVHSからDVDを製作することに挑戦してくれることになった。感謝の気持ちで新刊をプレゼントしたが、それだけでは感謝の気持ちは足りないな。もっと何か考えなくては。
 
4月21日(木)「入浴中に余震・・・の風さん」
 昨夜も疲労で早々とダウンしたが、午前2時半に目が覚めたので、根性で起き出した。
 明後日、帰りに東京で出版社と打ち合わせをするので、以前提出してあった企画書をバージョンアップしておかなければならない。どんな仕事でも時間があればやれそうな気がする。しかし、非情にもタイムリミットはやってくるのだ。
 限界までやって、メールに添付して送り、午前5時半にまたベッドに入った。
 何とか母を誘導して、病院へ連れて行くことになった。
 大震災が襲ってきても、時間がたてば芽が出て花が咲く。自然は猛威と抱擁を併せ持つ。
 青空が広がって、桜は満開。外の世界は春爛漫だった。
 わー、きれい! 母が満開の桜に歓喜の声を何度もあげる。喜怒哀楽がある限り、迂闊に施設や病院へ入れてはならない。
 病院は混んでいた。1時間半も待たされたが、満開の桜が見える待合室だったせいか、母はよく我慢した。
 しかし、診察は最悪の結果を導いてしまった。
 最も母の癇にさわる質問がされたからだ。
 「何か大事なものがなくなったりしませんか?」
 この質問は、「あなたはボケていませんか?」と同値だった。
 首を振ってごまかした母は、待合室に戻るなり、吐き捨てるように言った。
 「しまった場所を忘れたんじゃない。盗まれたんだ」
 もう二度と母をここへ連れてくることはできないだろう。
 帰りに母とラーメンを食べたが、母の異常行動は続いていた。
 帰宅してすぐ出発した。
 日大工学部に直行して、DVDを受け取り、GSで満タン給油してから、駅でレンタカーを返した。
 ここで憂鬱なことが一つあった。昨夜、最後に寄ったスーパーの駐車場で、縁石にホイールキャップをぶつけて傷付けていたのである。弁償しなければならない。
 申告したら係員が事務所から飛んできた。念入りに傷を確認している。上乗せの保険に入っていても、どうしようもない。免責5万円以内だからだ。
 やがて、裁定が下った。この程度ならOKです、というのである。いや、そればかりか、
 「縁石にぶつけた時、ハンドルに反動とかあって、お怪我はありませんでしたか?」
 とこちらの身を案じてくれたのだ。
 ここで文句たらたらだったら、次回が借りにくい。しかし、こういった対応をされると、またこの次もという気になる。実際、これから何度借りることになるか分からないのだ。
 「すみません。また、お願いします」
 と言ってしまった。
 DVDが手に入ったので、自宅から持ってきた資料と合わせて、レターパックを荷造りした。それを郡山駅前のポストに投函した。細工は流々仕上げをご覧(ろう)じろ、といくだろうか。後は、運を天に任せるしかない。
 今回の介護結果をケータイで兄に報告してから、新幹線で福島まで行き、そこから鈍行の新幹線リレー号で仙台まで行った。所要時間が1時間20分。疲労困憊の私は、車中で爆睡していた。
 地震の傷跡も痛々しい仙台駅から、東北大学工学部まではタクシーを利用した。まだ休学状態で、川内のキャンパスは人影はまばらだった。普通なら新入生を迎えて活気づいていたはずだ。
 青葉山も被害は大きかった。一人目の先生に地震見舞いをしてから、二人目の先生(親友である)を訪ねた。
 教授室のドアがドアの役目を果たしていなかった。なぜなら、半分裂けていて、閉めても人が通り抜けられるのである。
 その後、タクシーで国分町へ繰り出した。
 復興の様子は飲み屋街を見ればすぐ分かる。ほとんど営業していて、中に入っても客がいた。
 親友にずいぶんお金を使わせてしまった。すべての店で、私をPRしてくれたのも、恥ずかしいほどありがたかった。
 ホテルが満室だったので、初めてカプセルホテルに投宿した。
 午前1時過ぎ、大浴場の湯船に浸かっている時に、大きな余震があった。

4月22日(金)「認知症予備軍・・・の風さん」
 午前7時起床 in カプセル。いびきのうるさい客もいたが、爆睡していたので、気にならなかった。
 チェックアウトして外へ出ると、空は曇っていて、少し小雨がぱらついていた。
 バスで仙台駅まで行った。料金は100円だった。
 土産物屋があまり開いていなかったが、出張で来ているので、職場に買って行く必要がある。
 重い荷物ができてしまった(笑)。
 帰りの新幹線リレー号は快速である。福島までは1時間だ。
 出発して20分ごろから、車窓に満開の桜並木が延々と流れた。大河原の一目千本桜である。見事というほかない。大震災をしばし忘れてしまう。
 東京まで3時間以上かかった。既に1時過ぎ。このまま出版社との打ち合わせに入ると、3.11のリプレイになってしまうので、約束の時刻を少し遅らせて、昼食を摂ることにした。
 打ち合わせはきわめて順調に進んだが、このままGOがかかると大変なことになってしまうので、当分、企画段階で止めていてもらうようにお願いした。プロにあるまじき態度だが、力不足の風さんとしては、止むに止まれぬ決断だった。
 続いて、オキュルスに寄って少し打ち合わせをしたが、時間が足りなかった。
 品川から帰りの新幹線に飛び乗ったが、ここでとんでもないハプニングをやらかしてしまった。
 私の指定席に先客がいたのだ。
 確認すると、相手はちゃんと指定席券を持っている。
 昔の苦い思い出がよみがえる。あのときは、私は翌日の切符を買ってしまったのだ。
 デッキで、時刻表とにらめっこして、謎を解いた。
 結論はややこしい。整理して説明する。
 私は当初、この新幹線に乗ろうと考えて計画し、ケータイにもスケジュールをインプットしておいた。
 会社から指定席のとれる回数券を入手した私は、駅の自動機で、指定をとった。そのとき、ケータイに入っているスケジュールのうち乗車時刻だけを見た。品川発である。しかし、切符は東京発にした。このとき、東京と品川の間の所要時間を適当に計算したため、次ののぞみ号の指定を取ってしまったの。
 東京発の切符を見ながら品川駅へ向かった私は、ここでまた東京と品川の所要時間を適当に計算して、本来乗りたかったのぞみ号に乗車したのである。
 新横浜で降りた私は、数分後にやってきた指定切符ののぞみ号に乗り直した。
 認知症の母の介護をしてきた私だが、遠くない時期に私の介護をすることになるのは誰だろう?
 
4月23日(土)「地元の老人ホーム調査・・・の風さん」
 書き入れ時の週末である。執筆を進めなければ……。
 かつて執筆マシンで、長男にお下がりであげたノートパソコンが、ごみ同然になっていたので、昨年の暑い時期に、かなり時間をかけてセットアップしてあったが、性能が低いのが原因で、とうとう現役復帰する前に壊れてしまった。立ち上がらないのである。パソコンなどというものは、数年サイクルで更新していかないと、そのうち使い物にならなくなる。マイクロソフトの仕掛けた罠にはまっているのである。
 ダイニングでアプリルを使って、県内の老人ホームを検索したら、千件以上もヒットした。やはりたくさんあるのだ。
 とにかく勉強を始めなければならないので、高額でない施設で、あらゆる介護レベルに対応する2施設の資料請求をした。
 今日は資料を読んでいるだけで1日が終わってしまった。

4月24日(日)「短い講演なんだが・・・の風さん」
 昨日に続いて、今日も老人ホームを検索してみた。今度は、拙宅の近くにある施設である。2施設の資料請求をした。
 今度の火曜日に、新職場で初めてミニ講演をする。新刊を題材に話すのだが、内容をどうしようか、色々考えたあげく、新刊誕生までの経緯を話すことにした。人と人とのつながりから、今回の作品執筆のチャンスが舞い込んで、さらに私自身も挿絵に高山ケンタさんという画家を提案するという、同じ人と人とがつながる橋渡し役も演じたことを話そうと決めた。
 いつものように画像や写真主体のスライド編集である。講演時間も30分しかないので、用意する枚数もそれほど多くならないはずだ。
 そう思って作成し始めたが、4時間近くかかってしまった。この事実はしっかりボケた脳みそに記憶させておこう。
 しかし、講演後、はたして何冊売れるだろうか?
 夕食前にワイフと町議会議員選挙の投票に行ってきた。二人とも、地元の縁であちこちから頼まれることが多い。二人だから少なくとも二人には義理を果たせる。
 
4月25日(月)「投票した候補者が落選・・・の風さん」
 昨日わたしが投票した候補者は、12票差で落選した。知名度の高い人なので、落選は明らかに候補者の油断だ。私はともかく支持者や投票者に、これからどうやって応えていくのだろう。
 1週間ぶりの出社なので、やることがたんとある。ダイアリー手帳にはスケジュール、日本推理作家協会の手帳にはTO DO LISTがメモってある。雑用をこなすのは得意だ。芸術や創造は違うが、事務的なことはリソースさえ投入すれば、あとは何とかなるものだ。
 A製作所へ出社し、昼食をはさんで4つの会議に出席した。会社の状況が少しわかった。
 新刊が営業のトップからTグループの経営者へ配られ、早くも反応があったことを知った。ありがたいし、うれしい。
 雨が降る中、新職場へ移動した。
 着く頃には、空は晴れていた。
 そこでも、事務的な処理を(急いでいるものだけ)超特急でやって再びA製作所へとんぼ返り。
 2つの会議をこなしてから退社した。
 自宅でも雑務に追われ、執筆が進まなかった。

4月26日(火)「今日も超過密で濃厚な1日・・・の風さん」
 郵便局に寄ってから新職場に出社。
 今日は落ち着いて事務的な仕事に取り組んだ。しかし、とにかくたくさんあるので、TO DO LISTとにらめっこしながら、処理していった。
 その過程で、ちょっと驚いたことがあった。元部下がこの2月に職場で倒れ、救急車で運ばれたというのである。
 現在は職場復帰もしているとのことだったが、重責を担っているので、今後のことが心配である。
 おそらく労災との兼ね合いもあって、あまり騒がなかったのだろうが、私のところへ情報がこなかったのは悲しい。
 そのうちお見舞いも兼ねて顔を見に行こう。
 定時後、職場の懇談会があり、ミニ講演をおこなった。新刊『星空に魅せられた男 間重富』ができるまで、という内容で、人と人とのつながりが大切だというメッセージである。
 残念ながら、新刊のPRにはあまりならなかったようで、本は売れなかった(笑)。
 疲れて帰宅したら、ワイフから「伊東先生からお電話がありました」と伝えられた。
 折り返し電話してみると、待望の結果報告だった! 須賀川と仙台へ出かけるという、超あわただしい中、VHSからDVDを製作して、郡山駅前のポストから投函した努力が報われたのだ。うれしかった。いくら感謝の言葉を並べても足りないくらいだ。今年は4年ぶりの新作の出版や論文賞の受賞があったが、母の病気や震災で、うれしさは半減していた。それを補うに足る「良い知らせ」である(内容はまだナイショね)。
 早速、朗報をあちこちへ連絡した。
 ワイフも喜んでくれ、とっておきの「ゆめ酒」で祝杯を上げた。
 やはり、そのままダウンした。

4月27日(水)「ど貧民・・・の風さん」
 根性で午前3時に起きた(笑)。
 それから、昨夜の続きで(良い知らせのための事務手続き)、ファックスの用意をした。全部で11枚になった。
 朝食を摂った後、ファックスを送るわけだが、相手にちゃんと説明してからでないと、しっかり意図は伝わらない。それで、事前に電話をしてからファックスを送り始めた。ところが、1枚ずつ送るのが原則の旧式のファックスマシンなので、何度も失敗する。そうこうしている間に、何年ぶりかで知人から電話がかかってきたりで、パニックになった(笑)。
 結局、ファックスは2箇所へ送った。これで、ひと安心。
 出社途中で投函しようとコンビニの駐車場にミッシェルをとめたら、ちょうど郵便局の集配バイクが出発するところだった。相手との距離はけっこうあったが、こっちがA4サイズの茶封筒を持っているので、顔を向けるだけで察してくれたらしく、バイクから降りた。それで、まんまと封書を持って行ってもらった。日本ならではの優しさだろう。
 昼休みに母の居住地の役所の福祉課からケータイに電話が入った。介護認定の継続の確認だった。
 きわめて事務的な話し方をされる人で、誠意が感じられなかった。
 現金が必要になったので、会社のCD機で引き出した。残高は半月後に引き落とされる予定額プラスアルファしかない。
 退社するころには、雨が本格的に降っていた。
 郵便局に寄って、振り込みを5件処理した。帰宅して、今日おろした現金をワイフに渡して、長男へ送るように頼んだので、1日でまた私はど貧民になってしまった。

4月28日(木)「さらにど貧民・・・の風さん」
 昼食後、臨時の会議があるというので、歯を磨く余裕もなく、T職場へミッシェルで向かった。
 昨年度の決算報告が出たので、そういった連絡事項があったのだ。震災の影響で収支は予想より悪化していた。次年度の予想も立たないという。そりゃそうだろう。
 被災地にあって無事だった工場を、被害が大きくて復旧が難しい会社にそっくり貸与するという話が起きているとのことだった。日本のためという判断であり、良い話だと思った。
 帰りに、健康保険組合の事務所に寄って、遠くで暮らす長男のための保険証を作ってもらった。
 一橋大学と一緒にやっている仕事の最後のチェックをやらせてもらった。これが終われば、次の仕事を急ピッチでやらねばならない。母の件や震災で、ずいぶんとペースが乱されてしまった。
 今日は戸締り当番だったが、退社が遅くなるという人が代わってくれた。
 それで、予定より早く退社できたので、帰りに大型電気店に寄った。母のため、電磁調理器をチェックしたら、すごく安いのがあった。次回、持参して行こうと思う。これで、ガス台を使わなくてもよくなるだろう。
 連休前最後の日だったので、ミッシェルに給油して帰宅した。ガソリンのプリペイドカードも残額が1000円を切ってしまい、ど貧民感が増した。連休中は冬眠するしかない。
 
4月29日(金)「GWの課題・・・の風さん」
 昭和の日からGWに入った。
 気がついてみれば、平成も23年目である。
 その前に人生の35年があった。半分は子供だったから、混沌とした年月だったろう。
 しかし、大学に入ったあたりから、俄然、人生は意味をもち始めた。常に目的と方向性を探りながらの歩みだった。決してマルチが得意なわけではないと思っているが、同時並行で、普通の生き方を基盤に置いていた。結局、その普通つまり平凡というか自然というか、草木や動物の営みに相当する部分にこそ最も重要な人生の意味があり、そこに草木や動物との違い、人間らしさが出ればよいのである。それ以上のことは、結局は、おまけ。人間的な言い方でいえば、趣味か好みの問題なのだろう。
 その好みの問題に取り組むのが、このGWの最大の課題である(笑)。

4月30日(土)「強い気持ち・・・の風さん」
 連載原稿がまだできない。第24回、最終回である。せめて1ヶ月遅れで提出するためには、明日の朝には編集者へ届いていなければならない。それが、本当のデッドラインだ。
 構成はできているので、全体の筋が通ることを意識しながら、中身を埋めていく作業である。
 午後、次女から召集がかかった。私とワイフに対してである。
 何だろう、と思いつつ階下へ降りたら、花束のプレゼント。
 今日は私たち夫婦の結婚記念日だった。
 余裕のない私はいつか忘れてしまっていた。
 老化現象もあるだろう。仕事をセーブしないと、本当に、最も大切な普通の生き方までできなくなる。
 夕食前になっても執筆は終わらなかった。
 女子フィギュアスケートの世界選手権を、テレビで観戦した。
 安藤美姫選手の芸術性の高いスケーティングは、明らかに他の選手より際立っていた。
 たとえば指先まで無駄のない動きなのである。
 金メダルとなり、表彰式の国歌演奏中、彼女は「君が代」を口ずさんでいた。
 国際舞台で戦っているからこその自然な動作ともいえる。国際人の姿である。
 しかし、インタビューで、それだけでないことが分かった。
 彼女が「強い気持ち」と言った中に、東日本大震災で打ちひしがれた被災地を想う心が込められていた。
 難しい技を決めよう。ライバルに勝とう。メダルをとろう。そういう気持ちよりはるかに高いところに、彼女の想いがあった。
 高い志は、あらゆる障害を超越して、その人の言動をより高めていくのである。

2011年5月はここ

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